2002年3月23日土曜日

クアハウスは楽しい



石和温泉に行ってきました
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余丁町散人

年一回の人間ドック、今年は山梨県の石和温泉病院に出かけました。今まではずっと都内の病院での一日コースで能率的に済ませていたのですが、いまや時間がたっぷりある隠居の身、ちょっと遠いのが気になりましたが、せっかくだから温泉にでも入りながらのんびりと健康診断を受けようかと考えたもの。結果として大正解でした。

クアハウスは楽しい

富士山も綺麗に見えた

併設のクアハウスはとても快適で楽しめましたし、受診者本位のゆったりとした検診方式もなかなか良いものでした(都内の病院では受診者が自分でいろいろの診察室を巡回する方式をとっていますが、ここでは受診者は座ったまま待っておれば看護婦が来て案内してくれます。とてもいい気分)。ただ食事の量の多さにはちょっと閉口しました。「温泉病院」たる所以なのでしょうが、おかげで当分節食を続けなければならなくなりました。

帰りは時間があったので、河口湖、山中湖経由、一般道を通って帰りました。市街地を離れると日本の自然は十分残されており、咲き始めた花木が混じる山の緑は美しく、所々に散在する山の集落の風景も一つ一つちがった趣があり、とてもいいドライブでした。

でも東京に近づくと交通量が増え、街の風景も暑苦しくなってきます。一番渋滞したのはいわゆる郊外の住宅地といわれるところ。みんな車で移動するからでしょうか、極端に渋滞していました。

わが家に帰り着いたのは夕刻。昨日吹いた春一番のおかげで先週満開になったばかりのハナモモは相当花を散らしておりましたが、幸い遅咲きのハナモモ(白色)は影響を受けずにおり、満開の姿で我々を待ってくれていました。猫もいるし、やっぱりわが家は落ち着きます。

つらつら思うに
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道中つらつら考えることがありました。一つには、日本の宿泊施設での食事の量の多さについて。いまや多くの客は「泊まる」為に旅館ホテルを利用します。でもいまだに日本の旅館では食事にこだわりすぎているような気がします。この十年で旅館の売上は4割減との統計もありますが、ニーズの変化を読み間違っておれば当然のことでしょう。

もう一つ考えたことは、日本の自然の素晴らしさにあまりにも対照的な市街地の景観についてです。広告、電柱が無秩序に立ち並び、はっきりいって醜い。日本もやることがいっぱいある。富士山の自然が美しかっただけに尚一層この思いを強くいたしました。

ちょっと「隠居の小言」みたいな近況報告となりました。

2002年3月20日水曜日

〔再録〕荷風とお岩さん


「荷風塾」学校通信
School News
2002.3.20 学校通信 No4
荷風とお岩さん
    余丁町散人「荷風塾」学校通信の第4号です。今回は余丁町からちょっと離れて、荷風と於岩稲荷の関係について。お岩さんといえば四谷左門町の田宮神社。余丁町から目と鼻の先です。当然荷風もここにお参りしたことがあるはずと睨んでいたのですが、違うんですね。別のところのお岩さんだったんです。これが今日のお話。

散人は年甲斐もなくお化けのお話が好きなんですが、荷風はさすがは合理主義者、あまりその類のお話は書いていません。でもその荷風にも「お化け小説」に近いものもがあるのです。それが昭和19年に書かれた小説「来訪者」。お話は、老齢期に達した作家(荷風)が偶然文学を語り合える二人の若い友人に巡り会う。しかし、結局彼らに裏切られ、失望落胆するというものですが、主人公の老作家(荷風)が書いた『怪夢録』というお化け話の原稿が重要な小道具として使われているし、また悪役になる若者は(その罰として)お岩稲荷のそばの越前堀の隠れ家で人間離れした淫女に苦しめられるという、荷風にしては珍しく「お化け小説」の色彩が強いものです。とても面白い。

ところがこの小説の評判は決してよくありません。為にするために書かれた陰険な個人攻撃の文書と見なされることが多いようです。確かに、この「悪い若者」のモデルとなった平井程一(アーサー・マッケンの翻訳者として知られている人物)はかなり迷惑を被ったようです。でも実際の平井程一は博覧強記の立派な人物であり、いまでも彼を師と仰ぐ人々は少なからず存在するようで、それらの人たちによって、平井程一先生を攻撃した荷風はとんでもない「陰険爺」だと書かれる、というのが実態のようです。




紀田順一郎『略して記さず』では
 たとえば平井程一に私淑した紀田順一郎は『略して記さず』と題した文章の中で次のように書いています。

<引用はじめ>
「荷風は『おかめ笹』という滑稽小説があるように、本来ユーモア感覚に富んだ人だが、この作品はジョークにもならなかった。終わりに近い部分で荷風が「京橋区湊町は越前堀のお岩稲荷の側」にあるという二人の隠れ家を探索に行く場面があるが、お岩稲荷は昔から四谷左門町にあるものと相場が決まっている。こうした初歩的なミスが生じたのは、是が非でも二人の人物を淫靡かつ矮小な世界(ここでは怪談)に押しこめることで頭がいっぱいだったからであろう。お常をお岩に見立て、真夜中になると人が変わって白井を追い回すという趣向により、荷風は単純な復讐心を満たしているのである。(中略)要するに、あらゆる意味で荷風の執拗な復讐心の現れた作品というしかない」
<引用終わり>

痛烈ですね。散人もお岩稲荷は四谷の左門町にだけあるものと思っていましたので、越前堀というのはお話を面白くするために荷風が設定したフィクションだろうと考えていました。しかし、昨年ネットニュース fj.books で久留さんという方から、当時お岩稲荷は越前堀に移転していたので、この点については荷風が正しく「初歩的なミス」をしたのは紀田順一郎の方だと教えて貰いました。いやあ、嬉しかったですねえ。さすがにネットの世界は広大です。いろんな物知りがいる。

早速、四谷の田宮神社(お岩稲荷)に赴き縁起を調べますに、その通りだと判りました。お岩稲荷の始まりは四谷左門町で寛永13年(1636年)に遡りますが、文政8年(1825年)の東海道四谷怪談の上演以降、歌舞伎役者を中心に参拝客が増え「於岩稲荷」として有名になります。しかし明治12年の火事で社殿が焼失し四谷から越前堀に移ったのでした。それが第二次世界大戦でまた焼失し、今度は四谷左門町、新川2丁目(越前堀)二カ所に再建したということのようです。荷風が「来訪者」を書いたのは昭和19年ですから、その時は於岩稲荷はまさしく越前堀にあったのでした。

散人はこの度「来訪者」をもう一度読んでみましたが、「筆誅の書」という印象は受けませんでした。東京下町の風景の描写もしっとりしていて、さすがは荷風とうならせますし、老作家の青春を惜しむ気持ちが、去っていった二人の若い友人への暖かい感情と重なって、むしろ荷風は二人を懐かしんでいるのではないかとさえ感じたくらいです。平井呈一氏と実際に会って話を聞いた秋庭太郎によれば平井程一本人は荷風をいっさい恨んではいなかったそうで、なんだか肯ける気がいたします。
荷風と越前堀のお岩さん
  『日乗』 S10.10.29
最近また『断腸亭日乗』を読んでいて、荷風が実際に越前堀の於岩稲荷に参拝していたことも判りました。昭和十年十月二十九日の記述です。

「晴れて好き日なり。・・・風静かなれば歩みて新大橋に至り船に乗りて永代橋を過ぎ越前堀の岸に上る。・・・河岸通りに聳える三菱倉庫(注:あとで荷風は住友倉庫と訂正している)の裏手に出でお岩稲荷に賽す。震災後この淫祠もいかがなりやと思いしに堂宇は立派に新築せられ参詣の人絶えず。・・・・大正のはじめ頃この淫祠の門前筋向かいの貸家にたしか荒川とやらいいし淫売宿あり。若き後家人妻など多きときは七八人も集いいたることもありき。今日もこのあたりの貸家には囲い者らしきもの多く住めるがごとし」

さすがは荷風です。十年近く前に散歩の途中に観察した場景をしっかり小説に再現しているのです。荷風の実地調査の綿密さにはいつもながら驚嘆いたします。

ちなみに散人の実地調査の結果では、東京には於岩稲荷と称するものが全部で四つあるようです。二つの田宮神社については上に述べた通りです。三つ目は四谷左門町の田宮神社の向かいに陽運寺というお寺で、その境内に「於岩稲荷」が祀られています。田宮神社が越前堀に移転していた間、留守を守ってきたのでしょう。更にもう一つ(四つ目)は四谷三丁目のスーパー丸正の入り口にあるセメントで作られた「於岩供養水かけ観音」です。買い物客が出入りの度に水をかけてお参りをしているので、ここのお岩さんが四つの中で一番「参拝客」で賑わっています。

左に掲載している写真は越前堀のお岩さんのものです。四つ全部のお岩さんの写真はアルバムに作っておきましたので下のリンクからご覧ください。

<追記 2002.8.15>
上記に引用した紀田順一郎氏の文章は荒俣宏編著『大都会隠居術』(1996)における引用を引いたもの(孫引き)です。しかし今般『紀田順一郎著作集第7巻』(1998)を入手、収録されている「日記の虚実 略して記さず」および「永井荷風ーその反抗と復讐」を調べましたが、同じ文章とはなっておらず「初歩的なミス」のくだりは入っておりません。荒俣宏氏は多分最初に出された『日記の虚実』(新潮選書1988)から引かれたものと推察しますが、その後紀田順一郎氏はその部分を書き改めておられます。

四つのお岩さん

2002年3月17日日曜日

「視点コラム」の再開(あわせて「猫に小判」考)

2002.3.17


退職して一年になる。ちょっと昔が懐かしい感じもしないではない。一番残
念なことは在職当時に毎月書いていた「視点」というコラムが書けなくなっ
たことだろう。今般、散人のホームページの中に過去の視点コラムを収録す
る作業を行ったが、昔の自分の文章を読み返して無性に懐かしくなった。や
はり無い知恵を絞って、考え考えして書いたものだけに、愛着がある。さら
に歴史記録という面もあり、今読み直してもそれなりに興味深かった。とい
うことで、基本的には自分のためにではあるが、考えること書くことを続け
てみようと考えた。あと十年生きれば、その時にもう一度読み直して見よう。
その時、昔の自分の馬鹿さ加減を嗤えるぐらいに、知的に成長を続けること
が出来ればいいなと思う。

再開第一回目のタイトルに、「猫に小判」と書いた。隠居の身であるから少
々ふざけても怒られることはない。散人は猫が好きで人生のほとんどを猫と
生活したためか、猫にかなり影響を受けた。前生は猫ではなかったかと思う
ときもあるくらいだ。よって猫の考えていることは相当理解できるつもりだ
が、それでもよく分からないときがある。いわんや普通の人には理解できな
い。だから猫はなにも考えていない動物だと思われ、ハウツー本には「ネコ
にも出来る・・・」とかのタイトルが付く。たいへん猫に対して失礼だ。
最たるものは「猫に小判」ということわざだろう。ものの価値が分からない
人には値打ちのあるものを与えても無駄との意味に使われる。ネコは馬鹿だ
ねえ、「かつお節」をやれば喜ぶが、もっと価値がある小判は値打ちが分か
らないのでそっぽを向く、というのだ。

でも本当にそうだろうか。小判は確かにお金としての価値があるのだけど、
使用価値がある財サービスと交換できることではじめて値打ちがあるわけで、
小判も「かつお節」と交換してはじめてメリットが出てくるということが大
切。でも時として人間はそれを忘れ、小判自体を保有したいと並外れた情熱
を注ぐことがある。でもみんながそれをやり出すと不況になる。猫の方が頭
がいい。
現在の日本の不況でも同じ現象が見られる。不況がデフレを加速させ、貨幣
を保有しているだけで貨幣の実質価値が増加する時代だ。そういう状況では
誰もお金を使おうとは思わない。人々は投資したり消費したりして自分の保
有する貨幣を現実の価値「かつお節」に代えることに消極的になり貨幣のま
まで保有しようとする。それが更に不況を悪化させる。

こういう状況に対する処方箋をいち早く提起したのがケインズであった。ケ
インズは『一般理論』において「人々がみんな月をほしがり、月が一つしか
ない場合、人々は失業する。そういう場合は月の代わりにまるいチーズを大
量生産して人々に(月だといって)与えるしかない。中央銀行が文句を言え
ば国有化するのだ」と書いた。もちろんケインズの言う「月」とはお金のこ
と「まるいチーズ」とは増刷された紙幣のことである。ケインズが「流動性
の罠」と呼んだ状況に置いては、今も昔もインフレ政策でしか不況からの脱
出は出来ないのである。数十年前から指摘されていることで、それ程難しい
理屈ではない。

日銀の量的緩和の是非をめぐる議論がこの二三年続いていたが、ようやく日
銀は昨年の春より金融緩和の方向に舵を切った。量的緩和をはじめているの
である。一大決断であった。いまだに「インフレターゲット論の是非」につ
いて議論をする人を見かけるが、いささか過去の議論である。いまや大勢は
決しているのだ。実体経済に影響を及ぼすまでには時間がかかろうが、日本
はゆっくりと量的緩和による不況脱出の方向に進みつつある。これを間違え
てはならない。その認識のもとに、量的緩和に伴い不可避的に起こるインフ
レと円安への対応を、今から準備しておく時期に来ているのである。

最後に近況報告。隠居生活の自由気ままさはとてもいいものです。ときには
気の毒がられることもありますが、そういう人にはこのありがたみは「猫に
小判」なのでしょうね。

余丁町散人(橋本尚幸)

2002年3月9日土曜日

〔再録〕荷風はどこで幸徳秋水の囚人馬車を目撃したのか?


「荷風塾」学校通信
School News
2002.03.09学校通信  No.3
荷風はどこで秋水を見たのか
     余丁町散人「荷風塾」学校通信 No.03 です。引き続き余丁町関連の話題で、今回のテーマは「荷風はどこで幸徳秋水を乗せた囚人馬車を目撃したか」と言うこと。

前回も触れましたが、当時日本きってのハイカラ男だった荷風が欧米から帰国後、急に文明開化に背を向けて江戸指向を強めていくきっかけに幸徳秋水事件があります。幸徳秋水とは明治43年年6月いわゆる大逆事件に連座して検挙され、天皇暗殺計画の主謀者として明治44年1月死刑を宣告され、24日処刑された明治の社会主義者ですが、荷風が住んでいた余丁町のすぐ裏にある市谷監獄に収容されていたのです。荷風の随筆「花火」の中に荷風が秋水を目撃する有名なくだりがあります。次の文章です。

「明治四十四年慶應義塾大学に通勤する頃、わたしはその道すがら折々市ヶ谷の通りで囚人馬車が五六台も引き続いて日比谷の裁判所の方に走っていくのを見た。わたしはこれ迄見聞した世上の事件の中で、この折程云うにいわれない厭な心持ちのしたことはなかった。わたしは文学者たる以上この思想問題について黙していてはならない。小説家ゾラはドレフュー事件について正義を叫んだため国外に亡命したではないか。然しわたしは世の文学者とともに何も言わなかった。私は何となく良心の苦痛に耐えられぬような気がした。わたしは自ら文学者たることについて甚だしき羞恥を感じた。以来私は自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引き下げるに如くはないと思案した。」

これは荷風の転向のきっかけを説明するものとしてよく引用される有名なくだりです。これに対して、これは荷風のポーズであるとかいろいろ議論もあるのですが、散人の興味は、あくまでも「荷風は秋水をどこで見たか」という点でした。


囚人馬車と荷風の通勤経路
  市電路線図と坂道がポイントこれについては、いままで何となく曙橋の住吉町交差点あたりと考えていました。ところが最近当時の東京市街地図を手に入れたので検証してみたところ、考え違いをしていたことがわかったのです。

まず囚人馬車が日比谷に行く経路ですが、当時の市ヶ谷監獄は今の台町にありました。しかし台町坂はまだなかったので馬車は安養寺坂を下り曙橋商店街から靖国通りに出て左に曲がることになります。問題はこの次で、日比谷に行くためには津守坂を上がるルートと本村町を右に回って四谷見附に出る二つのルートがあります。でも当時の津守坂は非常に狭くとても馬車が通れないようであり、やはり本村町右折の線でほぼ間違いないと判断できます。

つぎに荷風ですが、余丁町から慶應義塾に行くのに当然市電に乗ったわけですが、当然靖国通りの住吉町交差点で電車に乗ったはずと散人は考えておりました。だから秋水を目撃したのも住吉町と思っていたのですが、今回調べてみて、実になんと当時の靖国通りには市電が走っていなかったことがわかったのです。荷風は市電に乗るためには四谷見附まで行くか、市ヶ谷見附まで行くか、いずれにせよ住吉町から相当歩いていたことがわかりました。

荷風はどちらの停留所を使ったかですが、両停留所とも余丁町からの距離はほとんど同じです。でも重要なことは坂です。四谷見附に行くには(徒歩ですからいろんなルートが考えられますがいずれにせよ)かなり急な上り坂を登らないと行けない。それに反し市ヶ谷見附の停留所は左内坂を下りた低地にあったと地図に書かれており、余丁町/住吉町から下り坂をだらだらと下って行けば着く。当然荷風は市ヶ谷に行ったと思われます。

ということで馬車と荷風の辿った道筋ははっきりしてきました。よって両者の接点は「住吉町から本村町までの間の靖国通り上のどこかである」ということになります。でも、正確にどの地点で出合ったかということは、まだはっきりしません。
再び荷風の文章に戻って
 市ヶ谷本村町に立ちこめる地霊
ここで荷風の文章をもう一度読むことにしました。荷風は「日比谷の裁判所の方に走っていくのを見た」と書いていることが重要であると思います。靖国通り(市ヶ谷の通り)上で馬車が「日比谷の裁判所の方に」行ったと表現できる場所といえば、どうしても本村町の交差点一カ所ということになるからです。荷風は通りを市ヶ谷見附の方角に歩いていた。馬車は荷風を追い越して、本村町を右折し日比谷の方角に向かって坂を上って行った、ということになるのです。

荷風がこの重要な「思案」をしたという本村町は、もと尾張藩の上屋敷でした。その後、陸軍士官学校となり、陸軍参謀部がおかれ、現在は防衛庁の新庁舎がそびえています。極東軍事裁判もここでやりました。三島由紀夫の自決場所としても有名です。なにか恐ろしい地霊がこの付近に立ちこめているような気がいたします。

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左の写真は靖国通り本村町丁字路を四谷見附側から見たところ。荷風と囚人馬車は左からやって来た。正面は防衛庁の新庁舎。
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このたび川本三郎の『荷風好日』が発売されました。同氏がこれまで雑誌などに発表されたエッセーをまとめたものですが、なかなか楽しめます。散人のコメントを掲示板に載せました。下のリンクです。

川本三郎『荷風好日

2002年3月2日土曜日

余丁町便り (No.004)


余丁町便り (No.004)
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余丁町散人

いよいよ春ですね。カブリオーレの季節です。車の幌を全開にしてドライブしました。風が暖かく、とても気持ちが良かったです。

北の丸公園を久しぶりに訪れました。マンサクと寒緋桜がとてもきれいに咲いていました。ハクモクレンの蕾はかなり大きくなっていましたから、もう一週間ぐらいで咲くのではないでしょうか。コブシの蕾はまだ小さく、咲くにはもう少し時間が掛かるみたいです。寒桜はもう葉をつけて葉桜になっていました。

わが家の紅梅は先週みごとに花を咲かせましたが、もうかなり散りかけています。ヒヨドリ、ムクドリ、シジュウカラがかわるがわるやってきて、梅の花を食べるから。

この季節はほとんど毎日花の様相などの景色が変わります。駆け足で春がやってくるのですね。


北の丸公園のマンサク

HPに視点コラムを

住友商事勤務時代に冊子「経済動向」に毎月連載していた「視点」というコラムのバックナンバーをHPに掲載しました。もう既に昔の話であり、あまり参考にはならないと思いますが、散人にとってはとても懐かしく、今回の収録に当たりコラムごとに読み返してみて感想やコメントを追記いたしました。当時はそれなりに一生懸命考えて書いたもので、いま読み返してみると恥ずかしくなるようなものもありますが、その時々の雰囲気を残しているものも多くあり、原文には手を加えず収録いたしました。自分史的な様相を呈しておりますが、ご笑覧いただければ幸いです。
なお、視点の古い分(96年から98年まで)についてはアップルの iTool ではなく自分でHTMLで別のサイトを作りました。テキストばかりのページですが、ちゃんと目次と本文のリンクが動きます。それをメーンサイトとリンクさせました。不細工なものですが、全部自家製です。何かプラモデルを作った子供のように喜んでおります。

神保町めぐり
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北の丸公園に駐車してから神保町に行きました。東京堂書店で出たばっかりの川本三郎の『荷風好日』を購入。昨日までは平積みにしてあったのがきょうはもう一冊しか残っていないとのことで、最後の一冊を手に入れることが出来ました。荷風の人気恐るべしです。

同じ東京堂書店で坪内祐三と紀田順一郎のサイン本が置いてあり、ちょうど買いたかった本でもあり即購入。最近はアマゾンのオンライン書店で本を買うことが増えていますが、このようなサイン本などが買えるのはやはり神保町ならではです。

そのあとスヰートポーヅで餃子を食べました。この店、すずらん通りにありますが、戦前満州帰りの人が東京で開いた餃子店です(下の写真)。本場の大連で修行を積んだだけあって、なかなか美味しいとの評判。こんなお店が残っているのも神保町の良いところかも知れません。

再開発で神保町も町並みは大きく変わりつつありますが、たまに来るのもいいもんです。